モノ愛・モノノイヒカ

量産品もいいもんだ

「一生もの」はあるのか?

こんなタイトルをつけてしまったが、結論から言ってしまえば「ない」である(あくまで私の場合)。

「一生ものですよ」は、販売員のよくあるセールストークだ。そして「一生ものだから」は、得てして高額な買い物を自分に納得させるための言い訳にすぎない。

私は今まで「一生ものだから」という理由で何かを買ったことはない。賢いからではなく、幸か不幸か懐が寒いから。ハイブランドの素敵な服やアクセサリーに強く惹きつけられることはあるけど、単に私の懐が許さない。

私の今のところの「一生もの」は、小学校のお祭りで買った、小さな水鳥の焼き物。名の知られた作家の名品どころか、無名の小学生の手による数十円相当の作品だ。

しかし、これが何とも味がある。少し首を傾げた不思議な表情。これを作った子は今どうしてるんだろう。

焼き物というのは、遺跡から出土するくらいに耐久性がある。だから丈夫さという意味では、この小さな焼き物は十分それを満たしている。なおかつ、手に入れてから大分経っても、未だに私の心を離さない。やはりこの水鳥の焼き物が、現時点での私の「一生もの」だろう。

100均の品物でも、気に入ってずっと使えるのなら、それは「一生もの」だ。一生ものは必ずしも価格の高低に左右されない。

そもそも、人は一生のうちで変化する。価値観も、生活も、身体も。付き合う人間だってライフステージごとに変わっていく。その中で、ただ高品質で高額だというだけの品物が例外でいられるだろうか?

ことファッションにおいては価値観も重要。昔は流行ったが、今は恥ずかしくてとても着られないなんて服はごまんとある。流行は繰り返すとは言え、リバイバルしたものは、やはりその時代に合わせて型が少し変わっていたりするものだ。

このように「一生もの」はないと考える私だが、「5年、10年付き合えるもの」はあると思う。単純に耐久性の面からそう言えるものもあるし、あまり時代に左右されないデザインだから、ある程度長く使えるものある。

それでもやはり好みの変化や、身体の変化によって似合うものが変わったりして、大事にしてきたものともいつか別れる時がくる。モノの状態がよければ、捨てるよりは欲しい人の手に渡ってほしい。それがせめてもの願いというもんである。